「まったく、お前という奴は今までどこで何をしていたんだ?」
後宮内のテラスで遅れてやって来た師匠と友人の姿を認めるなり、ミレダの口からは予想通りの怒声がついて出る。
彼女のかたわらには卓がしつらえてあり、その上には茶器や菓子が並べられている。そして、一足先に訪れていたカザリン=ナロードが、やや眉根をよせその様子をみつめていた。
慰霊式の後、お前が無事に帰還したことを慰労してやるからささやかながら茶会を開いてやる。そう提案したのはミレダだった。 公的ではないから強制力もないのだが、皇帝の妹姫というミレダの身分を考えると、それは半ば命令と言っても良い誘いである。 いわば主賓であるにもかかわらず遅れてきたシーリアスは、どこか面白くなさそうに主催者の苛立ちを真正面から受け止める。 だが、いつもとは異なりミレダからわずかに視線をそらし、やや離れたところに立ち尽くしたままそこから動こうとしない。 全てを押し殺したような表情から、カザリン=ナロードは何かを感じとったようだった。不安げに眉根を寄せ、大司祭は静かに口を開く。
「……何か、あったのではないの?」
何気なくかけられたその言葉に、ことの顛末を説明しようとしていたジョセが一瞬固まる。
けれど、問われた側はそんなに大騒ぎするほどのことではないとでも言うように、いつもと同様感情のない声で答えた。「何故自分がこの立場にいるのか……猊下や殿下のお側にいるきっかけを、ある人物に見られただけです」
わずかに目を伏せ吐息を漏らすシーリアス。青ざめた顔でカザリン=ナロードはジョセに向き直ると、ジョセは沈痛な表情を浮かべ一つうなずいた。
ただ一人話が見えないミレダは、少しいらだったようにシーリアスに鋭い視線を突き刺す。そして、表情同然の鋭い声でまくし立てた。「だから一体、何がどうしたんだ! 私にわかるように説明しろ!」
「宰相の飼い犬に力づくで嬲られている所を、ロンダート卿に見られただけだ」
まるで他人事のように言うその人に、ミレダは返す言葉も
後味の悪い慰霊式の日に周囲で起きた様々な出来事に未だ混乱しているユノーとは裏腹に、時間はことのほか静かに、そしていつも通りに流れていた。 そして気が付けば、忘れるはずもない父の命日はいつの間にか目の前に迫っていた。 せめて墓前に良い報告……騎士籍を取り戻したとの報告ができれば、そう思っていたのだが、未だその報せはない。 やはり生きて戻ってきては駄目だったのか、そうユノーは諦めかけていた。 だが予想に反して、ロンダート家に宮廷からの使者が訪れたのである。 明日参内するように、との命令を携えて。 その見計らったかのような事の展開に多少の疑問を抱きながら、ユノーは慰霊祭の時身につけていた礼装を再び引っぱり出した。 そして、翌日。 果たして迎えの馬車が、ちっぽけな家の前に現れた。 街の目抜き通りを抜け、宮殿の正門を馬車は粛々(しゅくしゅく)と走り抜ける。 皇宮の敷地にはいること数十分、手入れの行き届いた庭園の緑を眺めるユノーは、そのまぶしさに目を細めた。 やがて馬車は謁見の間がある建物に横付けされる。 扉を開ける御者に会釈をしてから、ユノーは案内役の侍従に従い、謁見の間へと向かう。 初めて足を踏み入れる選ばれた者達しか立ち入ることが許されぬ空間は、一目見てそれと解る高価な絵画や彫刻などで埋め尽くされている。 やがてその先に、一際大きな両開きの扉が見えた。 脇に控える者が左右からそれを開くと、侍従は脇に退き、こちらでお待ちください、とユノーに告げて頭を垂れた。 会釈を返し、ユノーは赤い絨毯の上に足を踏み出した。 背後で重々しい音と共に扉が閉まる。 高い天井とそれを支える柱には、細かい彫刻と彫金が施されており、明かり取りの窓から射す光が一段高いところにある玉座の上に落ちる。 さすがに貴族とはいえ末端の騎士との謁見とあって、その前には薄絹の幕が貼られ、彼のいる『世界』とは隔てられていた。 いや、ユノーような最末端なものに対しては代理のものが現れて、儀礼的に辞令を伝えて終わるはずである。
完全に女帝とそのお付き達の気配が無くなってから、ミレダは先程とは異なる口調で話し出す。「これからの話は、身分の差などは関係なく、対等な人間として聴いて欲しい。そして、一切の他言は無用だ」 何事かと思いつつもユノーはうなずく。 それを確認してから、組んだ足に行儀悪く頬杖をつきながらミレダは問うた。「お前は、この度めでたく名誉を復した訳だが、それで今まで思い抱いていた無念は晴れたか?」「……失礼ながら、どうしてそのようなことを、小官にお尋ねになるのですか?」 沈黙。 ややためらってから、ミレダは重い口を開いた。「私には、戦友と言える奴がいる。奴は昔、無意識のうちにとある罪を犯した。以来奴は、それに縛られて生きている。罪を償うためだけに生きてきたと言っていいだろうな……」 遠くを見つめるようなミレダの宝石のような青緑色の瞳に、ユノーは魅入っていた。 どこかで、同じ様なことを聞いた気がする。そんなことを思うユノー。 それを意に介することなく、ミレダの言葉は続く。「それでも……私にはもう、奴は充分苦しみ足掻き抜いたように見える。けれど私が何と言っても、奴本人が納得しない。まるでさらなる辛い道を望んでいるかのようで……」「……殿下は、その方を余程大切に思われているのですね」 正直なユノーの言葉に、ミレダの頬に僅かに朱がさす。 不相応なことを口にしてしまった。そう気付きあわてて謝罪しようとするユノーを、ミレダは手を挙げて制した。「いや、身分関係なく人間同士として聴いて欲しいと言ったのは私の方だ。謝ることはない。……だから私も正直に思っていることを話そう。私は、奴に死んでは欲しくない。……果たして、罪とは一体どういう物なのか……。一度犯してしまったら、もう絶対にうち消すことは出来ないのかと……。そこで、お前の意見が聞きたいんだ」 ようやく納得して、ユノーはそれまで渦巻いていた考えを整理する。 そして静かに切り出した。「では、御無礼と承知で申し上げます。……罪とは記録上からは消せるものですが、記憶からは消えないものではないかと思います」 続けろ、と言うようにミレダは青緑色の瞳をユノーに向けるわずかにうなずく。 それを確認してから、ユノーはやや震える声で言葉を継いだ。「自分のことを引き合いに出すのも気が引けるのですが……ロンダ
そして、夜が明けた。 常ならば父や母の好物や花を手に、人目を避けるように家を出て墓参をしていた、父の命日が来た。 ようやくその無念を晴らすことができた、騎士籍を取り戻すことができた。そう父母に伝えられる日が。 が、ユノーはなぜかよからぬ胸騒ぎを感じていた。 適当な口実で不審がる祖母をはぐらかし、一足早く家を出た。 まだほとんどの店が鎧戸(よろいど)を閉めていて人通りがまったく無い街を、一路墓地へと向かい走る。 開門直後の入口は、既に先客がいたのか、僅かに開いていた。 さらに嫌な予感がした。 ユノーは思い鉄製の扉を押し開く。 墓地に溜まる邪気が街に流れ込むのを防ぐ結界でもある扉を通り抜けた途端、ユノーはある物を感じた。 押さえ込まれながらも溢れ出ようとする哀しい『力』の波動。 これと全く同じ物を、ユノーは以前ごく最近感じたことがある。 それは忘れもしない、ルドラの最終決戦の後……。 なるべく自分の気配を消しながら、ユノーはその『力』の波動が来る方向へ足を向ける。 記憶が確かであれば、滅多に足を運ぶ人もいない区域──皇帝に対する逆賊者をまとめて埋めている場所から流れてきている。 苔むした道を歩くユノーの足は僅かに震えていた。 鬱蒼(うっそう)と茂っていた木々が次第にまばらになる。 その木々の中、申し訳程度に整地された草むらに、やはり申し訳程度の粗末な石塔が建っている。 その前で祈る人の姿が見えた。 無造作に束ねられたセピアの髪が、風に揺れている。 その人が祈り終えたとき、だが現れるはずのあの光の群は、浮かび上がっては来なかった。 信じがたい現実。 言葉もなくユノーは木の幹にもたれかかる。 静けさの中、ユノーが良く知るその人の声が、いつもと同じく無感動に告げる。「罪人の魂が浮かばれないと言う伝承は本当らしいな。ここで何度祈りを捧げてみても、誰も天に呼ばれて行こうとはしない」 すでにユノーの存在に気付いていたのだろう。
雑草の上に、血の飛沫が舞う。緑の草むらに真紅の雫(しずく)がこぼれ落ちる。 刃を紅に染めた短剣が、やや遅れてその上に落ちた。「どうして、止めたんですか? 僕は貴方にとっては、恨んでも恨みきれない、ご両親の仇の子なんですよ?」 短剣を払いのけられると同時に、後方へと突き飛ばされたユノーは、体勢を立て直しながら言った。 その視線の先には、短剣をなぎ払った左腕から血を流すシーリアスが、傷口を押さえ草むらにうずくまっている。 長い前髪に阻まれて、どんな表情をしているのかは、うかがい知ることが出来なかった。「だから、貴方は『寂しい』方だったんですね。……僕と違って、声を上げて泣くことも許されなくて。一人で、戦場を巡って……」「……違う……」「同じ事です! 同じ罪を僕に押しつけて、貴方は一人で逃げるんですか? それでは……それでは僕は、あなたを助けようとした父に顔向けが出来ません」 返答は、無い。 立ち上がったユノーは、雑草の上に落ちた短剣を拾い上げ、手巾で丁寧に血糊を拭うと元通り鞘に収めた。 そして、身じろぎもせずうずくまるシーリアスに歩み寄った。「お返しします……。お父上の形見なら、大切な物でしょうから……」「……た、と……」「え?」 聞きとがめ、ユノーは首をかしげる。 その時になって初めて、ユノーは『無紋の勇者』と敵味方から畏れられているその人が、泣いていることに気が付いた。 低いつぶやきが、再びその口から漏れる。「君が死ななくて良かった、と……貴官の御父君の、最期の言葉だ……」 息を飲むユノーを気にするでもなく、懺悔の告白にも似た言葉は、更に続いた。「その瞬間、こちらに向け
「……本当に、行くつもりなの?」 慈愛に満ちた大司祭の茶色の瞳は、卓を挟んで目の前に座す最愛の『息子』を不安げに見つめている。「ようやく、続けていた書写が終わりました。聖地リンピアスへ納めるならば、冬季の休戦期間に入る今を置いて他にはない。そう思います」 常の如く感情が全く感じられない声が、それに答える。 下級神官の長衣をまとった彼は、だが今日はその髪を無造作に束ねていた。 言葉もなく見つめてくる大司祭に、彼はさらに続ける。「確かに、自分が犯してしまったこと、そして忘れ難い過去の事実は、記録上抹消されたことですし、あくまでも非公式な物ですから、高官達も何も言えないとはわかっています。ですが……」 一端言葉を切り、自分を見つめる『母』の視線から逃れるように、彼はうつむく。「自分について公文書に記載されている事柄は、それこそ他者の血で塗り固められています。それでは……」 あの方のそばにいる資格はないとでも言いたげに唇を噛む彼に向かい、大司祭は諭すように言う。「……休戦期間だからこそ、内政は混乱を極めるでしょう。そんな時だからこそ誰かが殿下をお守りしなければいけなくはないくて?」「血と汚物にまみれた今の自分では、それに相応しくはありません」 せめてしかるべき地位を、とほとんど即答と言って良い速さで戻ってきたその言葉に、カザリン=ナロードはようやく折れた。どうやらその決意は固いらしい。 困ったような表情を浮かべながら、彼女は用意されていた書類を卓上に置いた。 それはルウツ大司祭の名で記された、正式な聖地への通行証だった。 だが、そこに記されている名は、『無紋の勇者』と畏れられている彼のそれではなかった。 前触れもなく失われてしまった『過去』に彼を繋ぎ止める、唯一のそれだった。「どうやら、決心は変えられないようね……。でもこれだけは約束してちょうだい。必ず帰ってくると」
息子や娘という存在は、無条件に愛せるものだ。親にとって自らの血を分けた存在であるならば、なおのことだ。 自分は、ずっとそう思って疑わなかった。 けれど、実際自分が親という立場になってみると、その考えは単なる理想論に過ぎない、そう思い知らされたのである。 自分はこの国ではありふれた中流の武人の家に生まれた。なんの疑いもなくその職業を継ぎ、戦場ではそこそこ武勲を上げた。その結果かどうかはわからないが、縁あって上官の息女を妻として迎えることとなった。 初めて会った上官の息女は、無骨で無愛想な上官に似ても似つかないほどの美しく優しい女性で、特につややかな黒い髪と瞳が魅力的な人だった。 はじめのうちこそぎごちない共同生活を送っていた自分たちではあったが、日々を共に過ごすうち自然と愛情が芽生え、それは小さな形になった。 けれど愛情の結晶が息子という形でこの世に生まれ落ちた瞬間、妻はそれと引き換えにあっけなくこの世を去った。 子を産むという行為は、女性にとっては命がけのことだ。 そう頭では理解していたつもりではいたのだが、その事実を目の前に突きつけられた自分は、泣きわめく息子と冷たくなっていく妻を前にして呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 けれど、武人という立場上、戦乱が続くこのご時世では妻の死を悲しんでばかりはいられない。 自分は戦のため家をあけることが多く、息子の世話は信頼の置ける乳母や召使いに任せ切りだった。 そして、家に戻っても何かと理由をつけ、自分は息子と向かい合おうとはしなかった。 その理由は、息子の容姿にあった。 黒い髪に黒い瞳を持つ息子の容姿は、失った妻を彷彿とさせ、なんとも言えない気分になる。 愛憎入り混じった感情、そう言ってしまえば簡単だが、そう単純なものではない。 だが下手をすると、自分はふつふつと湧いてくる複雑な感情から息子を手にかけてしまうかもしれない。 それが一番恐ろしく、自分は息子に会わないようなしていたのである。 そんなある日、戦から開放され自室で酒をあおっていた自分の
翌日、自分は息子と乳母を伴って聖堂へと向かった。 見えざるものに仕える神官にとっては禁忌である殺人をなりわいとする武人の自分である。当然のことながら信仰心などは皆無だ。聖堂など、自分にとってはもっとも不似合いな場所であり、めったに足を踏み入れることのない場所なことは、自分が一番良く知っている。 最後にこの場所を訪れたのは、妻の葬儀のときだったかもしれない。定められた日に行われる礼拝に預かることも皆無であるから、当然息子がここに来たのは初めてのことだった。 そんな信仰に薄い家族が血相をかえて飛び込んできたものだから、この地域の聖堂を預かっている主任司祭は驚いたような表情を浮かべながらも我々を迎え入れた。 光指す祭壇を背にして立つ主任司祭は、向かいあう長椅子に腰をかけている我々を、一体何事かとでも言うように見つめている。 自分は、物珍しそうに堂内を見回す息子に視線を送る。その様子はまるで普通の子どものようだった。しかし……。 意を決して自分は立ち上がり、率直に主任司祭に告げた。どうか息子を診てはくれないか、と。 それでもまだ要領を得ないような主任司祭に、自分はそれまでのことをとつとつと語った。 知っての通り、自分の妻は息子をこの世に生み出すのと引き換えにその生命を失ったこと。 妻が護ったとも言える息子は、武人の跡継ぎとも言える立場にあるのに目が見えないこと。 このようなことが重なり、自分は息子をずっと愛せずにること。 そんな息子が昨日、顔に傷を負った自分を前にして、それを心配する言葉を投げかけてきたこと。 今まで胸につかえていたことを一息に話し終えると、自分は力が抜けたかのように長椅子に深々と腰を掛けた。一方の主任司祭は、時折うなずきながら自分の言葉にじっと耳を傾けていてくれていた。 では、少々お待ちください、そう断ってから、主任司祭は乳母と共に聖堂の調度品について語り合う息子をしばらくと見つめる。それから息子と乳母の方に歩み寄った。 息子のかたわらに立った主任司祭は、息子に向かい事細かに聖堂内の彫刻や調度品について説明を始める。息子は黒い目を輝かせてその説明を聞いていた。 その様子を注意深く見ていると、主任司祭は息子の目の前で指を動かしてみたり、遠くにある彫刻を指さして息子の目
敵国内の情報網を統括する知人は、すぐに息子を連れてくるように自分に告げた。それを聞き、自分はとあることを察した。我が国は今、重大な問題に直面しているという話が水面下で持ち上がっていた。息子の目は、その問題を打破するのに適したものだったからだ。 初めて自分と二人で外出すること、しかも外出先が自分の職場と関係がある場所であると知った息子は、年相応の子どもらしく嬉しそうだった。自分はそんな息子に若干の後ろめたい気持ちを感じていたが、これも息子のためなのだと無理矢理に思い込もうとしていた。 自分と息子を執務室に入れると、知人は座るようにうながした。そして、猫なで声で息子に向かいこんなことを言った。「君か。この国を助けてくれる有望な少年は」 初めての場所に加え、それなりの地位を持つ人物に対峙しているということもあり、息子はかなり萎縮しておびえている。かすかに震えながら、無言で一つうなずくのが精一杯のようだった。 その様子を察したのだろう。知人はいかつい顔に似合わぬ笑顔を浮かべてみせた。「そう固くなることはない。話はお父上から聞いているよ。君は見えないけれど見えているんだろう?」 まったく矛盾するようなその問いかけに、息子は戸惑いながらももう一度うなずいた。その反応に知人は満足そうな表情を浮かべると、卓に片肘を付きながら息子ににじり寄る。「どういうふうに見えているのか、教えてくれないか? 私の顔は、どうかな?」 すると、息子はぽつりぽつりと話し始めた。ふくよかな顔に太い眉に立派なひげ。息子は知人の顔の特徴を紛うことなく答える。その言葉は知人を満足させたようだ。にやりと笑うと、知人はおもむろに本題へ入った。「どうだろう、その不思議な能力を、この国のために貸してはくれないかな?」 思いもよらないことだったのだろう。息子は不安げに隣に座っている自分の顔をのぞき込んできた。 無理もないことだろう。いきなりこんなところへ連れてこられ、力を貸せなどと言われるのだから。 知人は鷹揚に頬杖を付き、睨めるような視線で息子を見やった。「
窓の外には『平和な日常』がある。 朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。 果たしてこの大陸て、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。 何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。 そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。 皮肉に満ちた死神の笑みを。 ザハドの戦が終結してから、十日と少しが経過した。 本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、エドナ宗主であるマケーネ大公直々の命令により、エドナの首都に滞在することを余儀なくされていた。 彼にとって、首都は最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。 しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。なぜなら武家の家に生まれたにもかかわらず光を持たなかった彼は、力が発現するまで父親との関係はあまり良いとは言えなかったからである。 今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。 その根拠は、彼自身が一番良く知っている。 屈辱的な負け戦となったこの度のザハドの戦い、そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。 常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を殲滅(せんめつ)する。それが今回彼に下された命令だった。 が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。 結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。 自軍を守るために最良の方法を取ったわけではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。 エドナでは
国境の向こう側にいる人間は、この風景を見たら何と思うだろうか。 自らが犯した罪の重さを目の当たりにし、深く後悔するだろうか。それとも、最早何も感じぬほど既にその神経は麻痺しているのだろうか。 丘陵を埋め尽くす無数の墓碑を見やりながら、エドナ連盟アレンタ方面軍通称イング隊司令官付き副官ヘラ・スンは深々とため息をつく。 物言わぬ墓碑の群れは、戦場から帰還した彼女達を出陣した時とまったく変わらぬ様子で迎えた。 いや正確に言うと、その数は出陣時よりも増えているかもしれなかった。 戦が続く以上死者は増える。わかりきったことなのだが、いざそれを改めて目の前に突きつけられると、言葉も無かった。 ここは大陸の北の果て。 大陸全土で信奉されている『見えざるもの』の聖地にもっとも近い場所、と言えば聞こえはいいのだが、早い話が僻地である。 その最果ての地に駐屯しているのが『不敗の軍神』、もしくは『黒衣の死神』と恐れられているロンドベルト・トーループである。 そのような名声を得ている人物が、なぜ首都から離れたこんな所に配されているのか。 理由は、彼が戦において常に紛うことなく敵の進路を言い当てるからである。それはまるで不思議な力に裏付けられているようであった。 事実ロンドベルトは不可思議な力を持っていたのだが、それを知るのは上層部のごく一握りの人物と副官のヘラに限られていた。 その能力をもってして、権力の転覆を謀られたらたまった物ではない。 エドナの宗主は、数ある大公家から持ち回りで選出されるのだが、普段いがみ合っていた彼らの意見はその点では一致していた。 そして、下された命令にロンドベルトが従ったのは、権力者達の考えが至極真っ当だったからである。 ──下手に命令に背いて、付け入る隙を与える訳にはいかないだろう?── 言いながらロンドベルトが笑ったのは、初めてその力のことを聞い
深淵の闇の中に、漆黒の衣服を身にまとった男がいる。黒い髪に黒い瞳を持つその人は揺らめくランプの炎を見つめていた。 いや、正確に言うと見えてはいないのだが、彼の脳裏には仄かなその光が確かに映し出されている。 彼の黒玻璃の瞳は、生まれつき光を持たない。 けれど、持って生まれた司祭に匹敵するその『力』が、あらゆる物を見ることを可能にしていた。 目の前にあるランプの炎はもちろんのこと、この部屋に置かれた調度品の配置もはっきり見えている。無論その力は戦場でもいかんなく発揮され、幾度となく混戦を勝利へと導いてきた。 その不思議な能力で味方からは神格視され敵からは恐怖の対象となっている彼の名は、ロンドベルト・トーループ。『不敗の軍神』『黒衣の死神』などという二つ名を持つ彼はだが、今は少々というよりかなり不機嫌だった。 なぜなら戦から首都へ無事帰還し軍本部へ戦況の報告に訪れるなり、明確な理由の説明もなく軟禁に近い状況に置かれてしまったからである。 静けさの中、扉を叩く音が響く。 入れ、との声に応じて室内に入ってきたのは、まだ年若い女性だった。 彼と同様、黒衣に身を包んだ女性の名は、ヘラ・スンといい、ロンベルトの右腕と言っても良い存在で数少ない彼の腹心の部下である。その手には、一枚の紙が握られていた。 「騒ぎの原因は、解ったかな?」 彼がここに押し込められる少し前から、首都にはいつになく騒がしい空気が流れていた。彼は帰還するなりそれを感じ取り、副官であるこのヘラに軟禁される直前、密かに調査を命じていたのである。 危機的状況であるにもかかわらずどこか面白がっているようなその声に、女性は呆れたような表情を浮かべつつも一つうなずいた。 「どうやら街に、敵国の密偵が潜り込んでいたようです。……捕縛された一人は残念ながら尋問中に自死したのですが、こんな物を」 差し出されたそれを手に取ると、彼はわずかに目を細める。 同時に、鮮明な画像が彼の脳裏に広
久しぶりに立った戦場は、ひどいものだった。まったく統制のとれていない敵軍は、勝機も見えないのに突撃を繰り返してくる。そのたびに無数の敵の屍(しかばね)が自陣の前に積み上がり、鉄臭い血の匂いが周囲に漂う。 自分が配備された場所は大隊長の守備という最前線から離れた場所であったから、直接敵と切り結ぶことはなかったが、遠目に見ても敵の攻撃はあまりにも無謀に見えた。やがて、臭覚が麻痺した頃、斥候から情報が入ってきた。 曰く敵の司令部は、圧倒的不利な状況に全軍を置いて逃げ出したところを運悪くこちらの伏兵とぶつかり、あっけなく崩壊したらしい。戦場に残された部隊は指揮系統を失い、戦線を維持するのも困難な状況である、と。 義父の心配は、どうやら取り越し苦労だったようだ。そう安堵の胸を撫で下ろした時だった。後背の大隊長の部隊がにわかに動き出した。 指揮系統を失った敵を叩きに、大隊長自ら前線に出るのだろうか? そんなことを思った刹那、単騎がこちらに向かってくるのが見えた。ほかでもない、息子だった。いぶかしげに見やる自分のもとに駆け寄ると、息子は早口にこう告げた。「父……中隊長殿、敵が来ます!」 自分は耳を疑った。自棄になった一部の敵が血迷ったのだろう、そう思った。だが、息子は青ざめた表情で一点を指差しさらに続ける。「あちらの方角です! 大隊長殿はすでに退避を初めておられます。中隊長殿は……」 息子が言い終える前に、息子が指差した方向から無数の矢が飛んできた。盾を構えるのが間に合わなかった者たちが、ばたばたと落馬していく。間近に落ちた矢には、所属する部隊を示す特徴は見られなかった。 一体どういうことなのだろう。 疑問に思ったのもつかの間、無数の馬蹄の音が近づいてくる。そこに現れた部隊の大部分を占めるのは、不揃いの武具を身にまとい、思い思いの武器を構えた一団だった。おそらくあれは……。「傭兵だ! 注意しろ!」 しかし、個々の武勲に固執し徒党を組むことの少ない傭兵達が、なぜ統制されているのだろう。し
初陣以来、息子は着々と軍功を重ね、自分など足元にも及ばないほどの速さで出世していった。それは無論『目』という特異な力もそうだが、それ以上に武芸に励んだ結果でもあり、勇敢さが評価されたためでもあった。 駄馬の家系から駿馬が生まれたようなものだと当初自分は自嘲気味に思っていた。しかし、息子はそんな自分を心底尊敬してくれていると理解したとき、その考えは消えてなくなった。ただただ息子が無事に生きて戻ることを願い、共に生きながらえることができたことを喜ぶのが無二の楽しみになっていた。 そんなことが続いて、何年かの時が流れた。息子は大隊長付の副官的立場となっていた。そして自分のもとにも新たな辞令が届けられた。久しぶりの前線勤務、役職は中隊長だった。 それを知った息子は、父上と共に戦えるのですね、と心底嬉しそうな表情を浮かべていた。だが、目を輝かせている息子とは裏腹に、自分はこの人事に何かきな臭いものを感じていた。 自分が前線を離れて、もうかなりの年月が経つ。鍛錬こそ怠ってはいないが、実戦におけるカンというものはだいぶ鈍っているだろう。そんな自分を、なぜ今更前線に引っ張り出そうというのだろうか。 しかし、自分は国に仕える武人である。どんな裏があろうとも、下された命令には従わなければならないのだ。吐息を漏らしながら、自分は自らの武具を手入れしている息子を見やる。 志願して武人になった息子ではあるが、果たしてそれは息子の本当の意思だったのだろうか。自分は、卑しい利己心から息子の可能性を潰してしまったのではないだろうか。そして、唯一の家族である息子を、何やら恐ろしいものの中に巻き込んでしまったのではないだろうか。自分は、人の親として許されざることをしてしまったのかもしれない。 しかし、なぜこんなことを思うのだろう。自らの思考に疑問を抱きつつ、自分は武具を整えていた。 ※ 出陣を目前に控えたある日の昼下がり、かつての上官……つまりは亡くなった妻の父であり、息子にとっては祖父にあたる人が、珍しく家を訪ねてきた。 妻のことがあってからすっかり疎遠になっていた人が、一体どうして。
息子の決意を聞いた自分は、それまで教育係に丸投げにしていた鍛錬にまめに顔を出すようにした。時には直接剣をあわせたり、組手をした。加えて用兵術の方は知人のつてを頼って、かつて何度も武勲を上げた高名な退役指揮官の元へ通わせることにした。 直に剣をあわせてみると、驚くべきことに息子はかなり筋が良かった。一方で用兵術の方も大変飲みこみが早いようで、このままいけばどこへ出しても恥ずかしくない指揮官になれる、との有り難い言葉を頂いた。 いつしか息子の身長は自分よりも高くなり、成年を迎えた息子は、徴兵を待たずに志願して自ら武人となった。配属されたのは偶然なのか忖度なのかは定かではないが、所属する分隊こそは違うが自分と同じ部隊だった。 複雑な思いにとらわれる自分をよそに、辞令を手にした息子は自分に向かって深々と頭を下げこう言った。「今まで私を育ててくださり、感謝のしようもありません。この上は父上の名を汚さぬよう、立派な武人となってみせます」 そして、以後は一兵卒として厳しくご指導いただければ幸いです、とはにかんだように笑って見せた。 もっともその頃は、息子の剣技の腕は自分よりも遥かに卓越したものとなっていたので、教えられることなど無いも同然だった。しばし悩んたあと、自分は息子の肩を叩きながら、こう告げた。 より長く戦ってこそ国のためになる。決して、死に急ぐな。必ず生きて帰ることを考えろ、と。 ※ 程無くして、我々に出陣の命が下った。自分は後方の補給部隊、息子は前線の攻撃部隊の配属だった。 敵国の内部に張りめぐらせていた情報網が崩壊した今、敵の動きをつかむのは至難の業だった。戦闘は後手後手に周り、攻撃を仕掛けてくる敵を迎え撃つのに充分な準備期間を取ることはなかなか難しかった。 短期間で補給計画を練る自分をよそに、息子は支給された真新しい武具を嬉々として手入れしていた。 果たして、また息子に生きて会うことができるだろうか。 気がつけば自分はそんなことを考えていた。そして内心首をかしげる。やはり自分の内面は変化したのではないだろうか。 それまで自分は、
諜報機関の知人に会い家に戻ってからというもの、息子は部屋に閉じこもってしまった。もともと自分と居間で話すことなどほとんどなかったが、その様子は明らかにおかしかった。なぜなら教育係による訓練にも出ては来なくなってしまったのだから。 辛うじて乳母が運んでいる食事は受け取っているようだが、それもほとんど食べてはいないようだった。深夜には時折泣き声やうめき声が漏れ聞こえてくるので、たぶん満足に眠れていないのだろう。 そういえば自分も思い返してみれば、初陣を生き抜いて戦場から戻ってきたあとには、しばらくの間眠ることも食べることも満足にできなかった。成人を迎えていた自分ですらそうだったのだ。それを考えれば、無理もないことだろう。 やはり異国の凄惨な光景をいきなり眼前に突きつけられるというのは、年端もいかない息子にとっては、受け入れ難いほど衝撃的なものだったのだろう。命令だったとはいえ、配慮が足りなかった。そう自分自身を恥じた。 そしてふと、自分はあることに気がついた。それまで愛情のかけらすら持てずにどうしたらよいかわからなかった息子のことを、自分は今こうして心配している。加えて、申し訳ないことをしたと後悔の念を抱いている。これは一体、どういうことなのだろう。 自らの中に突如として生まれたもやもやとした感情をうまく整理することができず、自分は室内をうろうろと歩き回る。果たして自分は一体どうするべきなのだろうか。熟考した末ある結論に達し、自分は意を決して息子の部屋へ足を向けた。 息子の部屋の扉は、その心の内を示すかのように固く閉ざされていた。大きく息をついてから、扉を三度叩いた。もちろん返答はない。 けれど、ここで戻ってしまっては、自分は二度と息子と向かいあうことはできない。そう自らを奮い立たせ、扉を押し開いた。 薄暗い部屋の中で、息子は寝台に突っ伏して低く泣いていた。一大決心をしてここに来たつもりなのに、自分は息子に対して何と言葉をかけてよいかわからず、ただ戸口に立ち尽くしていた。 と、不意に泣き声がやんだ。おそらくは私の気配に気づいたのだろう。そして、息子は涙にぬれた黒い瞳をこちらに向けてきた。「…
敵国内の情報網を統括する知人は、すぐに息子を連れてくるように自分に告げた。それを聞き、自分はとあることを察した。我が国は今、重大な問題に直面しているという話が水面下で持ち上がっていた。息子の目は、その問題を打破するのに適したものだったからだ。 初めて自分と二人で外出すること、しかも外出先が自分の職場と関係がある場所であると知った息子は、年相応の子どもらしく嬉しそうだった。自分はそんな息子に若干の後ろめたい気持ちを感じていたが、これも息子のためなのだと無理矢理に思い込もうとしていた。 自分と息子を執務室に入れると、知人は座るようにうながした。そして、猫なで声で息子に向かいこんなことを言った。「君か。この国を助けてくれる有望な少年は」 初めての場所に加え、それなりの地位を持つ人物に対峙しているということもあり、息子はかなり萎縮しておびえている。かすかに震えながら、無言で一つうなずくのが精一杯のようだった。 その様子を察したのだろう。知人はいかつい顔に似合わぬ笑顔を浮かべてみせた。「そう固くなることはない。話はお父上から聞いているよ。君は見えないけれど見えているんだろう?」 まったく矛盾するようなその問いかけに、息子は戸惑いながらももう一度うなずいた。その反応に知人は満足そうな表情を浮かべると、卓に片肘を付きながら息子ににじり寄る。「どういうふうに見えているのか、教えてくれないか? 私の顔は、どうかな?」 すると、息子はぽつりぽつりと話し始めた。ふくよかな顔に太い眉に立派なひげ。息子は知人の顔の特徴を紛うことなく答える。その言葉は知人を満足させたようだ。にやりと笑うと、知人はおもむろに本題へ入った。「どうだろう、その不思議な能力を、この国のために貸してはくれないかな?」 思いもよらないことだったのだろう。息子は不安げに隣に座っている自分の顔をのぞき込んできた。 無理もないことだろう。いきなりこんなところへ連れてこられ、力を貸せなどと言われるのだから。 知人は鷹揚に頬杖を付き、睨めるような視線で息子を見やった。「
翌日、自分は息子と乳母を伴って聖堂へと向かった。 見えざるものに仕える神官にとっては禁忌である殺人をなりわいとする武人の自分である。当然のことながら信仰心などは皆無だ。聖堂など、自分にとってはもっとも不似合いな場所であり、めったに足を踏み入れることのない場所なことは、自分が一番良く知っている。 最後にこの場所を訪れたのは、妻の葬儀のときだったかもしれない。定められた日に行われる礼拝に預かることも皆無であるから、当然息子がここに来たのは初めてのことだった。 そんな信仰に薄い家族が血相をかえて飛び込んできたものだから、この地域の聖堂を預かっている主任司祭は驚いたような表情を浮かべながらも我々を迎え入れた。 光指す祭壇を背にして立つ主任司祭は、向かいあう長椅子に腰をかけている我々を、一体何事かとでも言うように見つめている。 自分は、物珍しそうに堂内を見回す息子に視線を送る。その様子はまるで普通の子どものようだった。しかし……。 意を決して自分は立ち上がり、率直に主任司祭に告げた。どうか息子を診てはくれないか、と。 それでもまだ要領を得ないような主任司祭に、自分はそれまでのことをとつとつと語った。 知っての通り、自分の妻は息子をこの世に生み出すのと引き換えにその生命を失ったこと。 妻が護ったとも言える息子は、武人の跡継ぎとも言える立場にあるのに目が見えないこと。 このようなことが重なり、自分は息子をずっと愛せずにること。 そんな息子が昨日、顔に傷を負った自分を前にして、それを心配する言葉を投げかけてきたこと。 今まで胸につかえていたことを一息に話し終えると、自分は力が抜けたかのように長椅子に深々と腰を掛けた。一方の主任司祭は、時折うなずきながら自分の言葉にじっと耳を傾けていてくれていた。 では、少々お待ちください、そう断ってから、主任司祭は乳母と共に聖堂の調度品について語り合う息子をしばらくと見つめる。それから息子と乳母の方に歩み寄った。 息子のかたわらに立った主任司祭は、息子に向かい事細かに聖堂内の彫刻や調度品について説明を始める。息子は黒い目を輝かせてその説明を聞いていた。 その様子を注意深く見ていると、主任司祭は息子の目の前で指を動かしてみたり、遠くにある彫刻を指さして息子の目